2014.03.27

「もちぐまんのストラップの意味や占い婆が言いたかった事とは?」

四畳半神話大系 第11話四畳半紀の終わり

絵コンテ・演出:湯浅政明 / 脚本:上田誠・湯浅政明

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四畳半世界に閉じ込められてしまった『私』は、様々な選択をした『私』の四畳半を通りながら、長い旅を続けていた。しかし、結局は無数の四畳半世界を小さく一周し、元の部屋に戻ってしまう。『私』はこの四畳半世界から抜け出すことは出来るのか?

第11話の主要スタッフ。絵コンテ・演出は湯浅政明。脚本は上田誠・湯浅政明。作画監督は伊東伸高。

以下は核心部分を含みます

上京して、まだ皆が学生だった頃。よく麻雀をしたり、誰かの家に集まって酒を飲んだりしていました。当時は、なんでこんな事をしてるんだろうと思っていたが、今考えるとあの頃は楽しかったなと思う。そのころの思い出話をすると、きりがないので、特に書きません。ただこの頃の思い出とかぶる部分も多いので、この作品が好きなのかもしれないです。

もう一つ余談で付け加えると、行定勲監督の「きょうのできごと」という映画。公開当時は、何が面白いのか全く分からなかった。しかし今改めて見ると、(作品の評価は別として)なぜか非常に良い映画に思える。もしかしたら僕は、あの頃に戻りたいと、どこかで思っているのかもしれない。

しかし僕の「あの頃に戻りたい」という思いは、この物語にあった、現状に満足せず「ありもしない日常を追い求めている」ということなんでしょうか?もしかしたら、今この平凡な日常の「目の前に好機はぶらさがっている」んでしょうね。

本編に関して。今回も正誤は問わず、勝手に解釈しています。

< 第11話に関して >

主人公は『私』であり、ヒロインは小津という構成で、物語の結末が描かれる第11話。そして、この物語がどういうテーマで描かれていたのかも、(すでにある程度結論は出ているのですが)明らかになります。

分岐点と概略

第一幕概略 「四畳半世界に迷い込んだ私が」
第二幕への転換点(6m10s) 「今までの私が充実してい事に気づく」
第二幕前半概略 「四畳半世界からの脱出を試みる」
中間点(11m50s) 「もちぐまんストラップを見つける」
第二幕後半概略 「一歩踏み出す」
第三幕への転換点(18m20s) 「明石さんを猫ラーメンに誘う」
第三幕概略 「薔薇色ではないが充実した大学生活を手に入れる」

第11話を分解

四畳半神話大系 第11話 パラダイム

1.私「かなうならあの日へ時間を戻したい」
通常であれば、第10話の終わりに来てもよい台詞。今までの構造から言えば「あの日に戻りたい」と最後にあり、次の話はサークルの選択からやり直せる。しかし、今回なぜそうしなかったのかといえば、時間が戻らないからである。

そして、今回はこの「戻りたい」の意味も全く違っている。第1話〜第9話までは「別の選択肢を選んでいれば」という後悔から出た言葉であり、今回の「戻りたい」は「今までの選択でどうして満足しなかったのか」という後悔から出た言葉である。

2.NA/私「〜あのマスターも同回生であったらしい」
いまさらどうでも良い情報であるが、羽貫さんや猫ラーメンのマスターも、樋口師匠の同回生であるという事が明かされる。一応最終話ということもあり、第5話でなぜ樋口師匠の差し金でマスターが助けに来たのか、樋口師匠と羽貫さんが付き合う事になった接点は何か、という点が回収されている。

3.四畳半の電灯にぶら下がるもちぐまん
どの『私』の話にも登場する、もちぐまんストラップ。いまさら解説するまでもないが、明石さんと結ばれるきっかけとなるアイテム。しかし、もう少しだけ深く考えると、幸せになるきっかけは、何気ないどんな日常の中にも存在する、という事の象徴ではないのか。しかし、各回の『私』はそれに気づかず、ありもしない「薔薇色のキャンパスライフ」を追い求め、失敗を繰り返し後悔する。

4.NA/私「その時私は、彼女に惚れたのである」
今までにも、何となくにおわせるシーンはあったが、言葉として「私が明石さんに惚れた」と出てくるのは、これが初めてである。

いまさらという感じだが、実はこれ、結構重要な台詞。今までの『私』は、自分が好意を寄せた相手以外と結ばれるという事を、「刹那的に相手を欲しがっているだけ」と全否定している。つまり、別ルートの『私』ではなく、必ず明石さんと結ばれるルートの『私』が、明石さんに好意を寄せる必要がある。そういた意味での登場でもある。

★.おきにいり / 9m20s (後述・クリックで移動)
「もしここから出られたら」と、平凡とも思える日常の数々を列挙する『私』。今話に関しては、好きな台詞がたくさんあったので、選びにくかったのですが、特に解説の必要もなさそうな台詞を選びました。

5.占い婆「漫然とせず好機を思い切ってつかまえてごらんなさい」
この台詞を受けて『私』が顔を上げると、各四畳半にぶらさがる「もちぐまんストラップ」。そして、私「今なら踏み出せる、何十歩でも、何百歩でも」との台詞。正直、鳥肌が立ちました。

しかし、ここでは占い婆の台詞に関して。もちろん『私』に対しての台詞ではあるが、現国の問題風に言えば、これが視聴者に対して、伝えたかった事ではないだろうか。「薔薇色な世界は存在せず、様々な色をしている」も作者の主張である。だから何?だから「漫然とせず好機を思い切ってつかまえてごらんなさい」である。

6.大通りに飛び出した「私」
通りを歩く人々が、色とりどり鮮やかに描かれている。いまさら言うまでもないが、世の中は雑多な色をしていて、それぞれの色に彩られているという事。第1話では、橋に集まっている見物客は、影として塗りつぶされているが、ここのシーンと対比させるのは間違い。第1話は、演出上そのように表現していただけのはず。

7.川岸から橋へ向かって大きくジャンプする「私」
この『私』がジャンプした時に、ヒゲと服がなくなる。時間軸的には、四畳半を抜けたときに変わるという選択もあったはずだが、なぜこのタイミングだったのか?解釈としては、小津を見つけて走り出すまでは、未来の『私』であり、走り出したとき『私』の時間が戻ったということです。より正確に言えば、時間を戻したである。今までは、他力本願的に時間が戻り(実際は平行世界だが)、やり直し、失敗するという流れであった。しかし今回は、好機をつかまえるために、自分の力で時間を戻したという事ではないでしょうか。

そして『私』が空を飛んでいる時の、樋口師匠のインサートカット。この樋口師匠の顔。まるでこれまでの『私』の物語を理解しているかのようである。しかし、これが第4話で説明のあった「常人ではない感知力を持っているように見える時がある」というやつなのでしょう。あくまでも「ように見える」である。

ちなみに、このシーンで気になった点が二つあります。主人公が走り出した時のインサートで、白鳥が飛び立つ実写。もう少し高く羽ばたいてくれればよかったのに……。そして蛾のCG。実写で登場するよりはよいが(この数が実写だったら相当気持ち悪い)、あきらかなCGなので違和感を覚えました。これが絵だったら、もっと迫力があっただろうな……

8.時計台で猫にえさをやっている占い婆
『私』が明石さんを猫ラーメンに誘う直前のカット。今までのパターンであればここで、占い婆の「好機は〜」という台詞が入るのですが、今回は入りません。しかし、占い婆のカットは入ります。解釈2パターン。

『私』が自分の力で歩き出そうとしたため、もう助けはいらないという意味での登場。ただその場合、明石さんとのやりとりが終わってから、このカットを入れてもいいはず(場所は猫ラーメンのシーンの直前)。

そこで次案。「猫ラーメンに誘うのを忘れるな」という最後の助け船としての登場。たぶんこれだと思います。理由は、このカットの後『私』が何かに気付き、私「それより猫ラーメンに〜」と切り出すため。「猫」「食べる」とベタな解釈ではありますが、そういう事ではないでしょうか。そう考えれば、明石さんと結ばれた『私』には、「占い」も「猫」も必要なくなったので、ラスト手前の占い婆は「猫さしあげる」と立て札を上げ、本を読んでいたのではないでしょうか。

ただ水を差すようですが、この明石さんへの告白(?)シーン。台詞のやりとりが、どうもアニメっぽくて好きになれない。いや確かにこれはアニメなんですけど……

9.明石「そんなに美味しいですか」
明石さんと「猫ラーメン」を食べに行くというのは、第1話で登場した約束。第11話前半で「炊きたての飯を持った茶碗が置かれたら、ぼうだの泪を流す」との台詞があったが、それよりも「ことさら恋い焦がれる猫ラーメン」。そこで『私』は、ぼうだの泪を流す。

10.私「俺なりの愛だ」
『私』の一人称が「俺」に変わり、顔が悪魔になる。ここで小津と『私』の立場が入れ替わる。立場もそうだが、考え方も小津のように「不毛と思われる日常を力一杯エンジョイしよう」と変わっているはず。

私「もしここから出られたら、カフェコレクションのたらこスパゲッティーを食い〜(以下略)」

非常に共感出来る台詞です。冒頭でも触れましたが、まだ学生だった頃のくだらない日常。今、思えばあの頃は本当に楽しかったと思う。ただ一つ、この物語と違うのは、頑張ってもそういう生活には戻れないほど、年をとってしまったということです。

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「四畳半神話大系」各話の考察

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